燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地はどんな場所?新田塚の名前の由来は?

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地を知っていますか?

「新田義貞戦歿伝説地は何があるの?」

「どんな場所なの?」

福井市にある燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地を調べてみました。

目次

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(とうみょうじなわてにったよしさだせんぼつでんせつち)は、新田義貞の戦没の地です。

祠堂があり、周辺は整備されています。

新田義貞(にったよしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

新田義貞は、鎌倉幕府を滅ぼしたことで有名です。

上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 – 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki

新田義貞が越前国を拠点として活動していた時に、燈明寺畷で敵の援軍と遭遇し、この地で戦死。

出生地は群馬県と言われ、南北朝時代を代表する人物の一人です。

由来は?

由来

新田義貞戦歿伝説地は、江戸時代に、藤島の戦いで戦死した新田義貞の兜が発見された場所。

1657年に農民が鉄製の兜を掘り出し、当時の鑑定の結果、新田義貞着用のものとして松平家にて保管された。

※ 現代の見解では、新田義貞が着用した可能性は低いとされています。

新田義貞戦歿伝説地

福井藩主の松平光通が、兜が発見された場所を「新田義貞」戦死の地と定めています。

松平光通により、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑が建てられました。

新田義貞が戦死したことで、この地は新田塚という名前になっています。

新田塚公園

新田塚公園

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地の隣は、広場になっていて、新田塚公園になっています。

公園には、広場とトイレがあります。

大きな通りに面していて、周辺は、会社、店舗や住宅地になっています。

駐車場はある?

新田塚のバス停

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地には、駐車場がありません。

交通量の多い芦原街道沿いにあります。

目の前に新田塚のバス停があります。(福井駅からバスで15分ほど)

駐車場はないので注意してください。

藤島神社

藤島神社の境内

福井には、新田義貞を祭神とする藤島神社があります。

掘り出された兜は、神社に奉納されています。
 
藤島神社は元々この地にあったが、明治時代に水害があり、福井の足羽山へ移されています。

藤島神社の記事はこちら

称念寺

称念寺の門

義貞の遺体は、坂井市丸岡町の称念寺に運ばれたそうです。

称念寺の境内には、現在も新田義貞の墓所があります。

称念寺の記事はこちら

まとめ

新田義貞戦歿伝説地

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地は、新田義貞の戦没の地。

新田義貞の兜が発見された場所です。
 
兜が本人のものかどうかは不明ですが、新田義貞がこの地周辺で戦死したことは事実です。
 

新田義貞は、鎌倉幕府を滅ぼしたことで有名。

後醍醐天皇(南朝)側の大将として足利尊氏と戦いました。

全国を転々とし、藤島城へ向かう途中で敵と遭遇し1338年にこの地で戦死。

新田義貞は、ぶれることなく南朝に尽くした正義の人と言われています。

もし機会がありましたら、立ち寄ってみてください。

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地のアクセス

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
住所福井県福井市新田塚町

福井駅の記事はこちら

新田義貞は、敦賀の金ヶ崎城を奪われ奪還しています。

金ヶ崎は戦国時代も重要な場所でした。

今回は、福井市の「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」へ行ってみました。

歴史が好きな方は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

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